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Channel: ゆめかたつの曲解的漫画考
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『ドラゴンボール超』がつまらなくなった理由と、なお色褪せない『名探偵コナン』への期待値について

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注)標題は、あくまで私個人の所感に基づくものです

同じ長寿アニメでも、『ドラゴンボール超』がかつての最盛期に比べなんとなく冴えない展開なのに対し、なお色褪せない面白さとキャラの魅力で今後の展開に目が離せない『名探偵コナン』……その分岐点は果たしてどこにあるのか。


長寿アニメともなれば標題の二作品に限らず、得てして「全盛期」というものがあり、ドラゴンボールについては分かりやすくいわずもがなフリーザ編、あるいは人造人間編あたりまでが全盛期だったという認識が一般的なのではないでしょうか(もちろん人それぞれの好みによるとは思いますが…)

一方で名探偵コナンの全盛期と衰退期について語るのは、これがなかなか難しい。

服部平次や怪盗キッドなどの強力な好敵手が出てきたころぐらいから面白くなってきたという人もいれば、灰原哀や黒の組織の登場に加えFBIや公安によるスパイ側の正体が明らかにされてきたころからが上り坂という人もあり、いずれにせよこれほどの長寿アニメにしてまだまだポテンシャル的に底知れなさを感じます。

とはいえ逆に、かつては冒険と戦闘に明け暮れた戦士たちが所帯を持ち、あるいは仕事を持ち新たな物語を紡いでいくドラゴンボールと比較し、同じ伏線をいつまでも引っ張るコナンの展開に「いつまでやってるの」という冗長感を抱く人もいるのかもしれません。

ですが、子供のころから愛でてきた長寿アニメ2作品の「いち大人視聴者」として忌憚のない意見を述べるならば、今のドラゴンボールは色んな意味でちょっと見るに堪えないというのが正直なところなのであります。

あっ誤解のないように言っておきますと決して「作品の質が劣化した」とかそういったことを言いたいのではありません。


えと、この気持ちについてはどうも理路整然と説明がしづらいので、少し具体例を挙げさせていただきますね!

恐らく『復活のF』でのワンシーンだったかと思うのですが、さらに強くなったフリーザが地球に攻めてくるということで、クリリンさんが久しぶりに胴着に身を包み現地へ赴こうとする際、着いてこようとする妻の18号さんに「18号さんは(危険だから)来ないでいい。それよりマーロン(娘)のそばにいてやってくれ」と父親らしくそう言い放つシーン…

クリリンさん一家の家族愛が垣間見られる、恐らく名シーンであるはずのそれに私は若干苦々しい思いを禁じ得ませんでした。

なぜか。

それは恐らくベジータ編からセル編に至るまで散々悟飯の「秘められたるパワー」頼みに、若干5歳~11歳までの幼少期を戦闘漬けにすることに加担したのみならず、そのたびに再三チチさんの「悟飯ちゃんを戦わせないでくれ」「地球の平和より悟飯ちゃんの勉強の方が大事だ」という悲痛な訴えを一貫してスルーしてきたクリリンさんが、いざ自分が所帯を持った途端、かなりの即戦力になる18号さんを「護るべき妻だから」と戦力外扱いしていることに関する違和感によるものなのかもしれません。

いやコレはクリリンさんの問題というよりむしろ、戦力になるなら争いを好まない子供でも否応なしに闘うものだという、ドラゴンボール作品の絶対的スタンスのようなものが、所帯持ちキャラの比重が大きくなっただけで安易に覆されているということへの、作品全体に対する不条理さが個人的に興ざめの要因なのかもしれないと分析しております。

当時のチチさんは「おっかない教育ママ」で「悟飯の戦闘的ポテンシャルには頑なに理解を示さない」「旦那やその友人を立てない」「KYな」キャラ像として描かれていたイメージがあります。

同じ女性キャラでもナメック星への旅をともにしたり、戦いの場に赤ん坊(トランクス)を連れてきたりと、活動的で自由奔放で、いつまでも若々しさと色っぽさを持つ女性として描かれるブルマさんとは対照的に、チチさんはどことなく「一戦引いたアウェイさ」が感じられるキャラでした。

しかし少年漫画(アニメ)におけるチチさんのようなキャラは得てして「アウェイ」であるべきだとも思ってました。

なぜなら少年漫画(アニメ)における「危険な冒険」と「母親(家族)の存在」はある意味、極めて相反すべきであるからです。

家族の庇護に背を向け、過干渉な母親の目を盗んでこそ、「冒険」はたちまちスリル性を帯び、精彩を放つものだということはこれまでにもあらゆる少年漫画が教えてくれました。

ドラゴンボールだって、ずっとそのスタンスだったはずです。

しかし長く困難な冒険を追え、キャラも視聴者も「大人」になった今、これまで散々「アウェイな存在」として扱われてきたチチさんのスタンスにどちらかといえば寄り添うようになってしまった。だからこそクリリンさんも「深刻な闘い(物語)」には妻や娘を絶対巻き込まないし、ヘヴィ展開だった「未来トランクス編」には悟天ちゃんやチビトランクスは殆ど活躍の場なしでした。なぜなら家族を愛する過保護な大人たちがそれを許さなかったから。

えと、決して批判しているわけじゃありません。

むしろ現実でもアニメ世界でも「子供」とは庇護されるべきもので、代わりに普段はカミさんに頭が上がらない「一家の長」が有事の際は愛する家族を守るため、かつての仲間たちと現役バリバリのまま矢面に立ち闘い続ける…いわゆる「世代交代しないヒーロー」像が、所帯を持ち責任ある立場を得た今でも少年アニメから足を洗えない大人視聴者の心をグッと掴むのかもしれません。現にそうした意図が製作側になきにしもあらずなのでしょう。

しかしそれを汲んだうえで私は個人的に、だからこそ「ドラゴンボール超は私の中ではオワコン」だという判定を下しております。

だったらまだセル編や魔人ブウ編あたりまでの「ヒーロー世代交代」な流れが垣間見えたころがよかったと思えるのです。悟飯や悟天、チビトランクスといった子供たちの秘めたるパワー(ポテンシャル)に地球の未来と希望を見出し、かつての大人ヒーローたちはサポート役に回るか、あるいはチチさんのようにアウェイな立ち位置から時々、恐れを知らぬ子供たちの無茶ぶりに警鐘を鳴らす役回りとなるか…

昨今の「ちゃんと大人してる」ドラゴンボールキャラたちを目の当たりにするとなんていうか、苦々しい気持ちになってしまうのは私自身が大人未満だからなのでしょうか。

ハラハラドキドキ夢中になりながら展開を楽しんでいたあのころのドラゴンボールではない、チチさんがアウェイな存在ではない、ママ友同士のネットワークもちゃんとある、数組の家族同士でホームパーティなんかして集まっちゃうような、ドッシリと足に地のついたキャラたちのいる「ドラゴンボール超」は、ちゃんとした大人に成りきれなかった私にとっては、もはや童心に帰らせてくれるアニメなどではなく、ザワザワと追い立てられるような居心地の悪さしか感じられないアニメになってしまいました(正直ツライ…)



えー、かなり愚痴の部分が長くなってしまいましたが、そろそろ『名探偵コナン』の話に移ります!

ここまで読んでいただいた方はすでに私が何を言わんとしているかお気づきのことかと思いますが、名探偵コナンにはいわゆる「ちゃんとした家族像」というのがほとんど出てきません。

とはいえ、かつてのドラゴンボールのように「年端のいかない子供」が矢面に立つなどといったこともほとんどなく、「子供」は「大人」に庇護されるべき存在(ゴマメ)として描かれているのは、少年探偵団の回などを見ていれば一目瞭然です。いわゆる「美味しいところ」は大人が持って行く代わりに、危険も大人が引き受けるといった構図です。

ともあれごく普通の小学生たちであるはずの少年探偵団のメンバーに家族(保護者)の存在がほとんど描かれず、出自がよくわからないというか、一貫して博士や蘭ちゃん、時には佐藤刑事・高木刑事など、「外の世界」の大人たちが彼らの保護者役を持ち回りで果たしているというのがこの作品の大きな特色であるといえます。

子供たちだけが主役(ヒーロー)で完結するようなアニメには満足できず、かといって友情も勝利も家族も力もすべて手に入れた「ちゃんとした大人」たちが現役バリバリのまま家族単位で進行するアニメは見ていてつらい…そんなどこまでも面倒くさい奴でもある大人視聴者でも安心して見ていられる長寿アニメが名探偵コナンなのかなと、そんな風に思ったりもします。

薬で幼児化してしまい、さらに組織から身を隠すため「仮初めの自分」を演じなければいけないコナンと灰原さん、そして潜入捜査のため私生活の大半を「自分でない誰か」として演じ分けながら過ごす喫茶ポアロの安室さんなど、もともとの「出自」を手放したキャラたちが「新しい自分」として事件を通し、「家族以外の絆」を紡いでいくその関係性にたまらなく魅力を感じたりするのです。




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