くろこんにちわ
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yukuです。
今週発売の週刊少年ジャンプ40号にて、ついに黒バスが最終回を迎えました。
とかくスポーツ漫画を敬遠しがちだった私が、バスケット競技をテーマとした黒バスに興味を持ったのは、主人公である黒子テツヤの「影役に徹する」という特殊なキャラ設定もさることながら、「キセキの世代」という10年に1人の天才たちが同時に5人揃ってしまったことで、他のプレイヤーたちがどこか「勝つこと」に対し投げやりになり閉塞感を有してしまったバスケ界というバックグラウンドに惹かれたからでした。
だからこそバスケ界を悠遊闊歩し、自身の限界に足掻く凡人選手たちを尻目に意のままに勝利を手にしつつ、挙句の果てには強くなりすぎたことに嘆き練習をサボりまくりそれでも最強だったり、強い上にイケメンモデルだったり、努力が報われない選手に平気で見下した言葉を投げかけたりと、まあ何かと「いけ好かない天才」であるキセキの世代たちを「凡才主人公」の黒子が自身の特性を最大限に生かし、「全員ぶっ倒す」という目標を掲げ遂行していくという構図に溜飲が下がるというか、爽快感を感じていたりしたわけです。
しかも火神という、「キセキならざるキセキ」とまで揶揄されし大型新人プレイヤー(コイツも「日本のバスケは弱い」などと舐めたこと言うキャラ)を相棒につけ、打倒キセキに利用するっていうのがまた小気味良さに拍車をかけたりするのです。
作中には「キセキの世代」たちとの圧倒的力の差を見せつけられ、バスケットを諦めていく選手もいれば、花宮のように「どれだけ頑張っても頂点には行けない」と限界を引き、その鬱屈した気持ちを晴らすかのように卑怯なラフプレイで「エースつぶし」に勤しむ選手もいたりして、まあこうした高校バスケ界の閉塞感を「凡人選手」黒子がドカーンと打ち破ってくれる気がして、そういった意味では私にとってどちらかというと冴えない「負け続け」の人生に光を与えてくれる代現的キャラとして黒バスの主人公に熱い視線を送っていた時期もありました。
だけどIHで桐皇に敗れたあと、ちょうど木吉が誠凛に戻ってきたあたり(コミックスでいうところの7巻あたり)からその雲行きは微妙に変わっていきます。
それまでは、相棒にして「真の光」でもあった火神も黒子にとってはあくまでもキセキの世代を倒し自分のバスケを認めさせたかったがために利用していたに過ぎず、誠凛のを日本一にするという目標もまた黒子にとっては「キセキの世代への復讐」に過ぎませんでした。
しかし、真の光とともにに挑んだバスケは青峰に全く通用せず、そのことで壁にぶち当たりもがいていた黒子に親身なアドバイスをくれた先輩、温かく見守って待ってくれるチームメイトたち、そして何よりワンマンだった火神が自分を信じてくれていたことで、黒子は考えを改めます。
「…だから」
「訂正させてください」
「ボクはもう帝光中シックスマン黒子テツヤじゃない」
「誠凛高校一年 黒子テツヤです」
そう黒子は宣言します。
そしてこのシーンこそが「キセキの世代への復讐劇」幕引きの瞬間であり、私が密かに小気味よいと溜飲を下げていた「天才たちへの逆襲」という趣旨からいわゆる少年漫画によくある、仲間同士で力を合わせて強敵を倒していくという「スポ根」漫画に代わってしまった瞬間でもあったわけです。
ちょっぴりそのことを残念に思う一方で、しかしひとつ気づかされたことがありました。
それは、これまでは凡人選手である黒子が、勝ち負けでしかバスケを語れないキセキの世代たちを「改心」させていくといういわゆる勧善懲悪的な要素をこの作品に見出していたのですが、実際はそんな黒子自身もまた、誠凛というチームによって浄化されていく物語だったのだということです。
海常との練習試合後、黄瀬に指摘された「火神との決別」という言葉を心のどこかでずっと抱えこんでいた黒子は、火神を「真の光」と認めつつもやはり過去に囚われていたということもこのシーンでわかります。
しかし、そんな黒子を過去から引きはがし浄化したのは、黒子と同じく、キセキの世代という天才が跋扈するバスケ界に「越え難い実力の差」を嫌というほど見せつけられ、一時はバスケを辞めたいとさえ思いながらもそれでも「バスケが好き」という気持ちでその壁を乗り越えてバスケを続けてきた誠凛のチームメイトたちだったということです。そしてその部分にこそ、『黒子のバスケ』という作品の感動のポイントがあります。
だけど私は個人的に、黒子には「天才たちへの復讐者」であり続けてほしかったのです。
しかしそんな願いも虚しく物語はどんどんスポ根の方向に転換していきます。
もはや本当の意味で「共に戦う」仲間と出会えた黒子にとって、勝利へのモチベーションは「天才たちを見返す」ことではなく、「誠凛みんなで勝つこと」です。
そのことを特に思い知らされたのが、花宮真率いる「vs霧崎第一戦」での黒子の、ラフプレイを繰り返す花宮に対する台詞
「ボクはキセキの世代のバスケットが間違ってると思って戦うことを選びました」
「けど彼らは決して…オマエのような卑怯なことはしない」
「そんなやり方でボクらの 先輩達の」
「誠凛(みんな)の夢のジャマをするな!!」
何ともアツイ台詞です。
が、私は心のどこかで寂しい気持ちになったりしました。
花宮のラフプレイは確かに唾棄すべきものであり、批判されてしかるべき行いです。特に木吉に対する仕打ちには憤りを隠せません。
だけどその善悪は兎も角として、私は花宮の「どうせ真面目に努力してもキセキの世代がいる限り報われることはない」といわんばかりのどこか投げやりな姿勢にある種のシンパシーを感じ、だからこそそうしたバスケ界の閉塞感をぶち破ってくれそうな期待のようなものをこのキャラに抱いていたりしました。
本来ならば……「キセキの世代に自分のバスケを認めさせたい」と復讐に燃えていた黒子も「こちら側」の選手だったはずなのです。
だけど浄化されし黒子はもう「キセキの世代」に対してのそうした私怨やコンプレックスといったものは取り祓われており、「こちら側」に共鳴することはありません。
さらに灰崎戦で、黒子とキセキの世代との距離の変容はより露わになります。
それが以下のシーンです。
灰崎の能力の前に為すすべもなく這いつくばる黄瀬。
そんな黄瀬の様子を観戦席の火神は
「それでも…アイツが負けるわけねぇ!!」
「あんなクソヤローに…」
火神にとっては灰崎は出会いからして最悪だったしまあ黄瀬を応援する気持ちはさもありなんです。さらに、「良きライバル」として何やかや黄瀬のことは選手として好意的に認めている様子も覗えます。
しかし黒子は…
ぶっちゃけこのときどちらを応援しているかよくわからないんですよね。
かつて「キセキの世代」に自分のプレイが「信頼されなくなった」ことに絶望しバスケ部から姿を消したという過去を持つ黒子。
火神のように手放しで黄瀬のことを応援する気持ちにはなれないのかもしれないなと考えていました。もしかしたら心の奥底ではかつての自分のように「用済み」にされた経緯を持つ灰崎に肩入れしているのかなとすら想像してました。
が、しかし次のコマでは絶望的な状況にいよいよ勝負を諦めかけ項垂れたままの黄瀬にあろうことか黒子は苦手とする声を張り、「信じてますから」とエールを送るのです。
もし「黄瀬への私怨を晴らすのは自分なんだからこんなところで再戦のチャンスをふいにされては困る」という理由での声援ならば「信じてますから」という言葉は出てこなかったと思います。
やはり黒子はもはや「キセキの世代」という天才たちを「見返すために」バスケをやってるのではなく、「誠凛高校一年 黒子テツヤ」としてコートに立つ健全なるバスケ少年としてWCに臨んでいるんだなあってことを認めざるを得ないシーンなのでした。
そこにはかつて私が熱い視線を送っていた「復讐者」黒子テツヤは存在しません。
いるのはただ、チームメイトと共に勝利をめざし、立ちはだかる壁にぶち当たりながらも試行錯誤し技を磨き、強力なライバルたちとも切磋琢磨し合える、理想的で熱い少年ジャンプの主人公です。
そして私はこの作品が今更ながら「少年漫画」であるということを嫌というほど思い知る羽目になるのです。
大人になってある程度、よい意味でも悪い意味でも「身の程」を知ったことで、子供のころはあれほど無数にあるかに思えた可能性は次々と泡のようにはじけていき、程よい場所に停滞してしまった私には少年漫画キャラたちの成長は眩しすぎて、そして容赦なく冷たくて、
だけど読むのやめられないんですよね…
黒バス最終回、長かったようであっという間でした。
ジャンプお家芸でもある「引き伸ばし」の憂き目にあわずに綺麗なカタチで最終回を迎えられたことについては大変喜ばしく思える一方で、ダラダラ続いてもいいからもう少し読んでいたかったなあという気持ちもあります。
最終話(275Q)にて赤司は初めての敗北に涙を流します。
(…負けた……生まれて初めて…)
実は黄瀬が初めて黒子たちに敗れたときも同じようなシーンがあったりするんですよね。
こうしてみると「最初の1人目」から「最後の5人目」まで長かったな…って感慨深い気持ちです。